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『般若心経について』
私は、真言宗豊山派佐渡宗務支所テレホン法話9月担当の曼茶羅寺住職 渡部 成樹と申します。
 般若心経で第一に重要なことは、「般若波羅蜜多」ということであります。
これは般若心経や大般若経、真言宗で日々お唱えする般若理趣経などに「ハンニャハラミタ
ハンニャハラミタ」 と特に目立って聞かれます。般若という言葉は私たち日本人にとっては、
般若の面とか般若湯とか馴染んだ言葉となつています。
般若の面は美人の鬼女の面でありますが、これは源氏物語に出てくる六条御息所の亡霊が
夜な夜な光源氏の前に現れておどすのでありますが、光源氏が般若心経をお唱えすると忽ちに
成仏したという伝説から般若の面と呼ばれることになつたのであります。
 また般若湯は「一杯の湯桶これを許す」という寒い高野山のしきたりから、酒とはいわず
熱かんを一杯だけ修行を終えた夕方に酒が許され、般若湯という代名詞が使われたのであります。
般若は智慧と訳されますが、私は覚りと訳しております。続く「波羅密多」は行くとか行動の
意味があり、これは修行ということであります。般若と波羅密多は本来別々の言葉でありますが、
お経の中では必ず二つの言葉が一つになつて「ハンニャハラミタ」と出てまいります。
これは覚りと修行が一体となっていること、覚りは修行によって得られ、修行あるところ必ず
覚りがあることを物語っています。従って、「般若波羅蜜多」は仏教全体を表している含蓄のある
言葉であります。ここに般若心経の第一の鍵があるということができます。
 第二の鍵として「空」と「無」があります。般若心経には「空」という文字が七つ、「無」と
いう文字が二十一も出てまいります。
「空々無々」と般若心経は「無い無いづくしの無いづくし」のお経のようですが、仏教の「空」と
「無」の文字はそれだけでも長い講義が必要なので実に意味の深いものがあり、仏教の覚りを表す
文字なのであります。ここでは序論や本論を抜きにして端的に結論を申し上げることにいたします。
「空」とは空々しいとか空虚ということではなく、この一字で仏さまの世界を表しています。
「不正不滅」、「不増不滅」の厳然たる仏の世界、仏のいのちを表しているものであり、汚れたり
浄くなったりする有限な眼に見える世の中の奥に偉大なるいのちが生きていることを表しているの
であります。
「色即是空」、「空即是色」とは、「色」この世の中、眼に見える種々なる形と動きを表していますの
で、この世はそのまま仏の世界だといっているのであります。
「無」は無いということではなく、修行によって執着の心を取り去ると本来清浄な覚りが開かれ、
本来の姿を取り戻す作用を表しているのであります。
                          参考文献 真言宗日常勤行法話実践講座

私は、真言宗豊山派佐渡宗務支所テレホン法話8月担当の清水寺住職 池田 英雅と申します。
今も昔も、多くの人達が四国88ヶ所霊場を巡拝されています。お遍路さん一人一人が何を求めお遍路されているのか…それは、弘法大師、空海、お大師様に出会う爲お遍路されていると言っても過言ではないでしょう。
お遍路では「同行二人」と言って常にお遍路さんと一緒にお大師様が現世に現れ巡拝されていると伝えられています。弘法大師をモデルに映像化された「空海」という映画では、ラストシーンにお大師様を演じられた俳優さんが、現在巡拝されているお遍路さんの一団の後方で、その一団をご加護するかのように一緒に巡拝されている…といった演出がされています。
では、一体お大師様は本当にお遍路団のどこに存在し一緒に巡拝されているのでしょうか?
その答えは、お遍路さん一人一人の心の中にお大師様は存在しています。それぞれ各人の心の中に、その心に安らぎを与え、存在しています。
それと同様に今この法話を聞いているあなたの心にも、お大師様は存在しています。そして誰の心にも平等にお大師様は存在し、私たちの心の安寧を導いてくれています。仏さまが心の中に存在するのです。
この心の作用を仏心といいこの心に気づくことが菩提心(無上正等正覚)を発すといいます。
自分の心の中の仏心に気づいたならば、同じ仏心を持った他人に対し、優しい言葉を掛け気遣うことの大切さ、そしてそのことは仏様に帰依することと同じことだということにも気づくことでしょう。
他人を気遣い優しい言葉や慈しむ態度で協力、支援し、いじめや差別を無くすことこそ我々僧侶の本当の仕事であり、それを伝えることこそ布教であると私は信じています。
「開け心の曼荼羅」これは我が真言宗豊山派のスローガンであります。今こそ皆様も自分の心の中にある大いなる慈悲の心、仏心に気づき、菩提心を発し、いじめや差別のない社会を築くことに協力しましょう。上無く正しく等しく正しく覚ること(菩提心を発す)の大切さを知ってください。

私は、真言宗豊山派佐渡宗務支所テレホン法話7月担当の正覚寺住職 大場 憲栄と申します。
本日は、お釈迦様の「爪上の土」というお話をさせていただきます。爪上の土のそうという字は爪という漢字ですので爪の上の土ということになります。
ある時、お釈迦さまが弟子の阿難さんを伴ってインド各地を回っておられた時、砂漠のような広々とした平原にさしかかりました。そこでお釈迦さまが足を止めて腰をかがめ土を一つまみ取られてから指を広げて土を落とし「この見渡す限りの広い大地の土と私の指の爪の上についている土とどちらが多いと思うか」と阿難さんに尋ねられました。
阿難さんは「もちろん、大地の土の方が多いです。」と答えました。
するとお釈迦様は「そのとおり、この世のなかには毎日見渡す限りのこの大地の土の数ほどの命が生まれてくるが、その中で人間となる命は今私の指の爪の上についている土の数ほどに少ないんだよ」と阿難さんを諭されました。
三帰依文というお経に「人身受け難し、いますでに受く」という文言がありますが、お釈迦様は、人間に生まれてくることがいかに難しくてまた有難いことかということを阿難さんに知ってもらい、一日一日を大切にして修業に励むよう、心がけることを教えるためにお話しされたのだと思われます。
仏教の基本的な教えに縁起説というものがありますが、この世のすべてのものは縁によって生じるという考え方であり、今日一人の人間としてこの世に存在することができるのは、親、伴侶、兄弟、先祖、先生、友人、家畜、故郷、社会、自然環境、仏教の教え等々数えきれない縁によるものであり、そのすべてに感謝したいと思います。
人間としてこの世に生まれてきたことを喜び、私と私以外の人達を幸せにするために一生懸命努力して、悔いのない人生を送りたいと切に願います。
正覚寺住職 大場憲栄

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