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真言宗豊山派佐渡宗務支所下、慶宮寺住職 金子照典と申します。
「もとの家族にもどる」ということをお話させていただきます。
 私共は死ぬということを、全く無になる、なくなってしまうものとは考えておりません。もちろん肉体は私たちの前からなくなってしまい、見ることも触れることも出来なくなります。残るのは御遺骨だけです。
 肉体は無くなってしまいますが、その御方自身は肉体を離れて、私共と全く違う世界へまいります。だから、その肉体を亡がらと表現しているのです。
 それでは肉体を離れた人は一体どこへ行くのだろうか。
 私たちは誰でも家族を二つ持っています。それは今の家族と、すでに亡くなっている家族です。
ご両親が亡くなっている御方もいるだろうし、おじいちゃん、おばあちゃんが亡くなっている御方、兄弟が亡くなっている御方もおありでしょう。それが元の家族です。
 私たちは一人ひとりの生きるエネルギーを燃やし尽くすと、元の家族のところへいくのです。それが死ぬということなのです。
 人生の受持時間が終わると元の家族のところ、なつかしい人々が待っているところへ帰っていくのです。行くのではなく、帰っていくのです。それが「死」ということなのです。
 そこへ帰っていけば、おじいちゃん、おばあちゃんが「長い人生、御苦労だったね。いい家族とすばらしい友達に恵まれて、とてもいい人生だったね」と、ねぎらいの言葉をかけてくれるに違いありません。
 そして、これからは元の家族が今の家族に、聞こえない言葉で励ましてくださり、見えない手でやさしく引いたり押したりして幸せの方向に導いてくださいます。
 聞こえない声、見えない手を感じとることがこれからの供養ということだと思ってください。私たちは目に見えるものしか信じませんし、科学的に証明できるものしか納得しません。
 しかし、亡くなった御方の意志というものは、この世で御縁の深かった方々へ必ず働きかけてきているものです。何日先か分かりませんが、亡くなった御方の御気持ちを、心で聴いたり、脳でキャッチする人が何人も出てくるはずです。それを単なる錯覚だなどと片付けないでください。それは、亡くなった御方が見守っていてくださることに気付くべきです。
 毎日御先祖様に手を合わせ、亡くなった御方が送ってくるメッセージに心の耳をお澄ましください。

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