私は、真言宗豊山派佐渡宗務支所テレホン法話十月担当の観音寺住職の小野法龍と申します。法話などという大層なことは苦手ですので、我が国仏教史の中で、その興隆に多大な功績を残した聖徳太子について述べてみたいと思います。ほんの少々の時間ですので、おさらいの意味でお付き合いの程、お願い申し上げます。
聖徳太子が活躍したのは、いわゆる大和時代の六世紀末から七世紀初めの頃で、厩(うまや)戸(との)豊(とよ)聡(さと)耳(みみの)皇子(みこ)と謳(うた)われているように、太子は用明天皇を父に持つれっきとした皇族の一員でした。叔母にあたる推古天皇が即位されると非常な才能を見込まれて、若干二十歳で摂政として国政に当たり、新しい国造りに尽力されたのです。その刷新の政策は、それまでの閥族政治を改め、広く人材を登用せんと「冠位十二階の制」を制定し、異国の文化の享受を図って遣隋使小野妹子の派遣を決め、国の伝統を明らかにして皇室の権威を確立するために「天皇記」や「国記」の編集を命じたのであります。そして、聖徳太子の施策の中でも特筆すべきは先にも触れたように、大陸から渡来した新しい思想である仏教に深い理解を示され、進んで国政に取り入れたことでした。この政策こそ、後に太子が八宗の祖と仰がれる所以であり、もし、太子のこの功績がなかったなら現在の仏教国日本もなかった、と言っても過言ではないのです。
仏教の伝来は国家間における公伝では西暦538年のことで、聖徳太子は摂政に就くと直ちにその翌年に「三宝(さんぼう)興隆の詔(みことのり)」を発し、さらに「十七条の憲法」の二条に「篤(あつ)く三宝を敬え、三宝とは仏・法・僧これなり」と定めたのでした。言うまでもなく、仏法僧とは仏教、広くは宗教を成立させる要素で、くどいようですが、仏とはほとけそのもの、法とはほとけの説かれた教え、僧とはその教えを受持実行する集団のことであります。それまでは帰化人や蘇我氏など一部の氏族の間で信奉されていた仏教でしたが、聖徳太子の登場によって、朝廷という体制の保護の下、新しい国家を統治するための根本思想に据えられて広く浸透して行ったのでした。
聖徳太子の仏教信仰を具体的に述べてみますと、少年時代から仏教に関心を寄せていたようで、帰化した高麗や百済の僧からその思想を学び、仏教の諸宗にも精通していたのであります。そして、その傾倒の顕れは、太子自らによる「法華経」や「勝鬘経」の講義に始まり、ひいてはそれら経典の解説書である「義疏」の製作にまで及んだのでした。また、太子は仏教布教の拠点となる寺院の建設にも力を注ぎ、その建立は七ヶ寺にも達したのです。中でも四天王寺や法隆寺はその代表的なもので、最初に建てられた四天王寺は、施薬寺・療病院・悲田院の三院が併設され、庶民救済の社会事業的な施設として法隆寺は僧の仏教研究、人権形成の道場として建立されてのであります。荘厳で崇高な美を誇る寺院建設は、当然のごとく、建築技術の発達を促し、仏像彫刻などの美術工芸の進歩に寄与したのでした。
釋尊の生誕から千年の時を経て日本に上陸した仏教は、聖徳太子を初め歴代の天皇の庇護を受けて、国教のごとく全国に展開して行った訳ですが、奈良時代までは、まだまだ大陸の模倣に過ぎず、単に場所を移しただけで、その深遠の思想から日本固有のものは生まれて来なかったのです。しかし、平安時代に入ると、二人の高僧の出現により、天台宗、真言宗の日本仏教が開創され、その後の新しい宗派もこの二宗を母体として成立したのでした。
終わります。ありがとうございました。