テレホン法話(平成26年11月)

真言宗豊山派佐渡宗務所管内の私は長谷寺住職の富 田 宝 元です。
 此度、お話をする機会をちょうだいしましたので、限られた時間内ではございますが、仏の考えの中から慈悲と言うことに関連してお話を申し上げさせていただきます。
 人それぞれが、いつまでも 若々しく思うままに生き、自分も納得の行くような幸せな人生を過ごし、終えると言うことは、ある意味で仏様の教えにも叶う理想的な生き方であります。
しかし、私達が地球上に生きている人類の中の「ひとり」であり、お互いに争いながらも基本的にはお互いに支えあっているのが現実である以上、自分の思うような人生を過ごすことが難しいのは、皆様もご存じの通りです。
しかしながら、私達がこの世の中に生きている以上、人それぞれに自分が願っているような幸せな人生を過ごしたいと、思っているのは、当然のことであり、決して不思議では有りません。皆、同様に明日の幸せを願い、明るい将来を期待しているのです。
しかし、現実はどうでしょうか。皆様もお分かりのとおり、自分自身の幸せを求める余り、他人の幸せをないがしろにしたり、挙句の果てには排除しようとしたりしています。
残念ながら、このような例は珍しくありません。ここで私は仏の教えのひとつである、「慈悲」と言う言葉のもつ意味について申し上げたいと思います。
 即ち、慈悲の「慈」は人々に分け隔てなく幸せをもたらすこと、そして「悲」は人々の苦しみや悲しみを取り除こうとする思いやりの心のことです。
つまり、仏の教えである「慈悲」とはどんな人々にも幸せになってほしいと願い、自分以外の人の苦しみを感じとり、それを払ってあげようとする心のことです。
それは決して助けてやろう言うような気持ではなく、心から人を救いたい、そして幸せにしてあげたいと言う願いの心から起きるものなのです。
人それぞれが、幸せに生きていくためにはこの教えが示すように、自分の幸せを思う前に他人の幸せを思いやる心を持つことが何よりも望ましいことなのです。
とは申しましても、人それぞれが幸せに生きて行くためには、当たり前のようですが、例えば各々が現在の境遇に違いがあるとしても、自分の心の持ち方や生き方についての、自分なりの覚悟を持って、一日一日を大切に、精一杯努力して行くことが、必要なのではないかと、私は思っております。

どうもたいへん有難うございました。

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