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真言宗豊山派佐渡宗務支所管内の私は城腰の不動院住職の中浜尚文です。
この度お話をする機会を頂きましたので、十三仏について、お話をさせて頂きます。
 真言宗のお葬式や法事でよく使われる十三仏は、十王経をもとに室町時代に日本で作られた冥界の審理に関する十三の仏であります。また、十三回の追善供養、初七日から三十三回忌をそれぞれ司る仏様としても知られ、あらゆる仏事に飾る風習が伝えられました。十三仏とは、閻魔王をはじめとする冥途の裁判官である十王とその後の審理を司る裁判官の本地とされる仏であります。これらの仏は審理において実際の裁判所における裁判官の役目を勧めることとなるとされています。また単に死者を裁くのではなく、時には弁護士のように救いの手を差し伸べます。
 初七日の仏、不動明王は亡者を守護し、どうしてよいかわからない不安な霊魂を叱咤激励して先導します。二七日、釈迦如来は長い仏門修行の旅の説明をします。三七日、文殊菩薩は極楽世界へ行くための知恵を教えてくれます。四七日、普賢菩薩は六道に迷う心を慈悲心で救い、悟りの世界へ行く知恵を与えてくれます。五七日、地蔵菩薩は六道に落ちている大衆の仏心を呼び覚まし、平等に徳を与えてくれます。六七日、弥勒菩薩は亡者の苦悩を取り除いてくれます。四十九日、薬師如来は死者の生前の未練を断ち切り、満中陰の法要によって、新たな修行へ導きます。百ヶ日、観音菩薩は強い慈悲心で亡者を救済し、餓鬼道を彷徨う亡魂を救います。一周忌、勢至菩薩は亡者に菩堤心を与えてくれます。三回忌、阿弥陀如来は極楽世界への往生の仕方を教えてくれます。七回忌、阿閃如来は修行の総監督として強い菩提心を植えつけてくれます。十三回忌、大日如来は悟りの世界に導いてくれます。そして三十三回忌、虚空藏菩薩は、涅槃にたどりつかせ、永遠の宇宙の命として、祖霊に導いてくれます。
十三仏とは、日本古来の先祖崇拝と仏教の追善供養が習合し、先祖供養を大切にしてきた日本仏教の象徴です。ですから、自宅で葬儀や法事に使われる十三仏の掛軸は家宝であり、先祖代々に渡り大切に保管されています。
 ご清聴頂き、有難うございました。

平成26年11月1日発行の佐渡支所だより 第10号をアップロードしました。
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真言宗豊山派佐渡宗務所管内の私は長谷寺住職の富 田 宝 元です。
 此度、お話をする機会をちょうだいしましたので、限られた時間内ではございますが、仏の考えの中から慈悲と言うことに関連してお話を申し上げさせていただきます。
 人それぞれが、いつまでも 若々しく思うままに生き、自分も納得の行くような幸せな人生を過ごし、終えると言うことは、ある意味で仏様の教えにも叶う理想的な生き方であります。
しかし、私達が地球上に生きている人類の中の「ひとり」であり、お互いに争いながらも基本的にはお互いに支えあっているのが現実である以上、自分の思うような人生を過ごすことが難しいのは、皆様もご存じの通りです。
しかしながら、私達がこの世の中に生きている以上、人それぞれに自分が願っているような幸せな人生を過ごしたいと、思っているのは、当然のことであり、決して不思議では有りません。皆、同様に明日の幸せを願い、明るい将来を期待しているのです。
しかし、現実はどうでしょうか。皆様もお分かりのとおり、自分自身の幸せを求める余り、他人の幸せをないがしろにしたり、挙句の果てには排除しようとしたりしています。
残念ながら、このような例は珍しくありません。ここで私は仏の教えのひとつである、「慈悲」と言う言葉のもつ意味について申し上げたいと思います。
 即ち、慈悲の「慈」は人々に分け隔てなく幸せをもたらすこと、そして「悲」は人々の苦しみや悲しみを取り除こうとする思いやりの心のことです。
つまり、仏の教えである「慈悲」とはどんな人々にも幸せになってほしいと願い、自分以外の人の苦しみを感じとり、それを払ってあげようとする心のことです。
それは決して助けてやろう言うような気持ではなく、心から人を救いたい、そして幸せにしてあげたいと言う願いの心から起きるものなのです。
人それぞれが、幸せに生きていくためにはこの教えが示すように、自分の幸せを思う前に他人の幸せを思いやる心を持つことが何よりも望ましいことなのです。
とは申しましても、人それぞれが幸せに生きて行くためには、当たり前のようですが、例えば各々が現在の境遇に違いがあるとしても、自分の心の持ち方や生き方についての、自分なりの覚悟を持って、一日一日を大切に、精一杯努力して行くことが、必要なのではないかと、私は思っております。

どうもたいへん有難うございました。

 私は、真言宗豊山派佐渡宗務支所テレホン法話十月担当の観音寺住職の小野法龍と申します。法話などという大層なことは苦手ですので、我が国仏教史の中で、その興隆に多大な功績を残した聖徳太子について述べてみたいと思います。ほんの少々の時間ですので、おさらいの意味でお付き合いの程、お願い申し上げます。
 聖徳太子が活躍したのは、いわゆる大和時代の六世紀末から七世紀初めの頃で、厩(うまや)戸(との)豊(とよ)聡(さと)耳(みみの)皇子(みこ)と謳(うた)われているように、太子は用明天皇を父に持つれっきとした皇族の一員でした。叔母にあたる推古天皇が即位されると非常な才能を見込まれて、若干二十歳で摂政として国政に当たり、新しい国造りに尽力されたのです。その刷新の政策は、それまでの閥族政治を改め、広く人材を登用せんと「冠位十二階の制」を制定し、異国の文化の享受を図って遣隋使小野妹子の派遣を決め、国の伝統を明らかにして皇室の権威を確立するために「天皇記」や「国記」の編集を命じたのであります。そして、聖徳太子の施策の中でも特筆すべきは先にも触れたように、大陸から渡来した新しい思想である仏教に深い理解を示され、進んで国政に取り入れたことでした。この政策こそ、後に太子が八宗の祖と仰がれる所以であり、もし、太子のこの功績がなかったなら現在の仏教国日本もなかった、と言っても過言ではないのです。
 仏教の伝来は国家間における公伝では西暦538年のことで、聖徳太子は摂政に就くと直ちにその翌年に「三宝(さんぼう)興隆の詔(みことのり)」を発し、さらに「十七条の憲法」の二条に「篤(あつ)く三宝を敬え、三宝とは仏・法・僧これなり」と定めたのでした。言うまでもなく、仏法僧とは仏教、広くは宗教を成立させる要素で、くどいようですが、仏とはほとけそのもの、法とはほとけの説かれた教え、僧とはその教えを受持実行する集団のことであります。それまでは帰化人や蘇我氏など一部の氏族の間で信奉されていた仏教でしたが、聖徳太子の登場によって、朝廷という体制の保護の下、新しい国家を統治するための根本思想に据えられて広く浸透して行ったのでした。
 聖徳太子の仏教信仰を具体的に述べてみますと、少年時代から仏教に関心を寄せていたようで、帰化した高麗や百済の僧からその思想を学び、仏教の諸宗にも精通していたのであります。そして、その傾倒の顕れは、太子自らによる「法華経」や「勝鬘経」の講義に始まり、ひいてはそれら経典の解説書である「義疏」の製作にまで及んだのでした。また、太子は仏教布教の拠点となる寺院の建設にも力を注ぎ、その建立は七ヶ寺にも達したのです。中でも四天王寺や法隆寺はその代表的なもので、最初に建てられた四天王寺は、施薬寺・療病院・悲田院の三院が併設され、庶民救済の社会事業的な施設として法隆寺は僧の仏教研究、人権形成の道場として建立されてのであります。荘厳で崇高な美を誇る寺院建設は、当然のごとく、建築技術の発達を促し、仏像彫刻などの美術工芸の進歩に寄与したのでした。
 釋尊の生誕から千年の時を経て日本に上陸した仏教は、聖徳太子を初め歴代の天皇の庇護を受けて、国教のごとく全国に展開して行った訳ですが、奈良時代までは、まだまだ大陸の模倣に過ぎず、単に場所を移しただけで、その深遠の思想から日本固有のものは生まれて来なかったのです。しかし、平安時代に入ると、二人の高僧の出現により、天台宗、真言宗の日本仏教が開創され、その後の新しい宗派もこの二宗を母体として成立したのでした。
 終わります。ありがとうございました。

『般若心経について』
私は、真言宗豊山派佐渡宗務支所テレホン法話9月担当の曼茶羅寺住職 渡部 成樹と申します。
 般若心経で第一に重要なことは、「般若波羅蜜多」ということであります。
これは般若心経や大般若経、真言宗で日々お唱えする般若理趣経などに「ハンニャハラミタ
ハンニャハラミタ」 と特に目立って聞かれます。般若という言葉は私たち日本人にとっては、
般若の面とか般若湯とか馴染んだ言葉となつています。
般若の面は美人の鬼女の面でありますが、これは源氏物語に出てくる六条御息所の亡霊が
夜な夜な光源氏の前に現れておどすのでありますが、光源氏が般若心経をお唱えすると忽ちに
成仏したという伝説から般若の面と呼ばれることになつたのであります。
 また般若湯は「一杯の湯桶これを許す」という寒い高野山のしきたりから、酒とはいわず
熱かんを一杯だけ修行を終えた夕方に酒が許され、般若湯という代名詞が使われたのであります。
般若は智慧と訳されますが、私は覚りと訳しております。続く「波羅密多」は行くとか行動の
意味があり、これは修行ということであります。般若と波羅密多は本来別々の言葉でありますが、
お経の中では必ず二つの言葉が一つになつて「ハンニャハラミタ」と出てまいります。
これは覚りと修行が一体となっていること、覚りは修行によって得られ、修行あるところ必ず
覚りがあることを物語っています。従って、「般若波羅蜜多」は仏教全体を表している含蓄のある
言葉であります。ここに般若心経の第一の鍵があるということができます。
 第二の鍵として「空」と「無」があります。般若心経には「空」という文字が七つ、「無」と
いう文字が二十一も出てまいります。
「空々無々」と般若心経は「無い無いづくしの無いづくし」のお経のようですが、仏教の「空」と
「無」の文字はそれだけでも長い講義が必要なので実に意味の深いものがあり、仏教の覚りを表す
文字なのであります。ここでは序論や本論を抜きにして端的に結論を申し上げることにいたします。
「空」とは空々しいとか空虚ということではなく、この一字で仏さまの世界を表しています。
「不正不滅」、「不増不滅」の厳然たる仏の世界、仏のいのちを表しているものであり、汚れたり
浄くなったりする有限な眼に見える世の中の奥に偉大なるいのちが生きていることを表しているの
であります。
「色即是空」、「空即是色」とは、「色」この世の中、眼に見える種々なる形と動きを表していますの
で、この世はそのまま仏の世界だといっているのであります。
「無」は無いということではなく、修行によって執着の心を取り去ると本来清浄な覚りが開かれ、
本来の姿を取り戻す作用を表しているのであります。
                          参考文献 真言宗日常勤行法話実践講座

私は、真言宗豊山派佐渡宗務支所テレホン法話8月担当の清水寺住職 池田 英雅と申します。
今も昔も、多くの人達が四国88ヶ所霊場を巡拝されています。お遍路さん一人一人が何を求めお遍路されているのか…それは、弘法大師、空海、お大師様に出会う爲お遍路されていると言っても過言ではないでしょう。
お遍路では「同行二人」と言って常にお遍路さんと一緒にお大師様が現世に現れ巡拝されていると伝えられています。弘法大師をモデルに映像化された「空海」という映画では、ラストシーンにお大師様を演じられた俳優さんが、現在巡拝されているお遍路さんの一団の後方で、その一団をご加護するかのように一緒に巡拝されている…といった演出がされています。
では、一体お大師様は本当にお遍路団のどこに存在し一緒に巡拝されているのでしょうか?
その答えは、お遍路さん一人一人の心の中にお大師様は存在しています。それぞれ各人の心の中に、その心に安らぎを与え、存在しています。
それと同様に今この法話を聞いているあなたの心にも、お大師様は存在しています。そして誰の心にも平等にお大師様は存在し、私たちの心の安寧を導いてくれています。仏さまが心の中に存在するのです。
この心の作用を仏心といいこの心に気づくことが菩提心(無上正等正覚)を発すといいます。
自分の心の中の仏心に気づいたならば、同じ仏心を持った他人に対し、優しい言葉を掛け気遣うことの大切さ、そしてそのことは仏様に帰依することと同じことだということにも気づくことでしょう。
他人を気遣い優しい言葉や慈しむ態度で協力、支援し、いじめや差別を無くすことこそ我々僧侶の本当の仕事であり、それを伝えることこそ布教であると私は信じています。
「開け心の曼荼羅」これは我が真言宗豊山派のスローガンであります。今こそ皆様も自分の心の中にある大いなる慈悲の心、仏心に気づき、菩提心を発し、いじめや差別のない社会を築くことに協力しましょう。上無く正しく等しく正しく覚ること(菩提心を発す)の大切さを知ってください。

私は、真言宗豊山派佐渡宗務支所テレホン法話7月担当の正覚寺住職 大場 憲栄と申します。
本日は、お釈迦様の「爪上の土」というお話をさせていただきます。爪上の土のそうという字は爪という漢字ですので爪の上の土ということになります。
ある時、お釈迦さまが弟子の阿難さんを伴ってインド各地を回っておられた時、砂漠のような広々とした平原にさしかかりました。そこでお釈迦さまが足を止めて腰をかがめ土を一つまみ取られてから指を広げて土を落とし「この見渡す限りの広い大地の土と私の指の爪の上についている土とどちらが多いと思うか」と阿難さんに尋ねられました。
阿難さんは「もちろん、大地の土の方が多いです。」と答えました。
するとお釈迦様は「そのとおり、この世のなかには毎日見渡す限りのこの大地の土の数ほどの命が生まれてくるが、その中で人間となる命は今私の指の爪の上についている土の数ほどに少ないんだよ」と阿難さんを諭されました。
三帰依文というお経に「人身受け難し、いますでに受く」という文言がありますが、お釈迦様は、人間に生まれてくることがいかに難しくてまた有難いことかということを阿難さんに知ってもらい、一日一日を大切にして修業に励むよう、心がけることを教えるためにお話しされたのだと思われます。
仏教の基本的な教えに縁起説というものがありますが、この世のすべてのものは縁によって生じるという考え方であり、今日一人の人間としてこの世に存在することができるのは、親、伴侶、兄弟、先祖、先生、友人、家畜、故郷、社会、自然環境、仏教の教え等々数えきれない縁によるものであり、そのすべてに感謝したいと思います。
人間としてこの世に生まれてきたことを喜び、私と私以外の人達を幸せにするために一生懸命努力して、悔いのない人生を送りたいと切に願います。
正覚寺住職 大場憲栄

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