アーカイブ

 私は金井新保にあります、大慶寺副住職と金井中興、長国寺の住職を勤めさせていただいております近藤慶太と申します。
 今回は『十善(じゅうぜん)戒(かい)』についてお話をさせていただきます。『十善戒』とは仏教における戒律です。戒律を簡単にいうと規則のことですので、『十善戒』は仏教徒が守る十個の規則ということになります。『十善戒』は三部に分かれていて、「身(しん)」「口(く)」「意(い)」とあり、「身(しん)」は体の事、「口(く)」は口(くち)、言葉。「意(い)」は心、意識の事になります。
 それでは『十善戒』の一番目「不殺生(ふせっしょう)」意味は、生きとし生けるものは全て同じ命を持っています。故意に生きているものを殺してはいけません。次は「不偸盗(ふちゅうとう)」自分に与えられていない物を自分の物にしない。人の物を盗らないということです。三番目「不邪淫(ふじゃいん)」意味は、妻以外と淫らな関係を持たない。不倫をしてはいけません。ここまでが「身」つまり体の作用の事です。
 次からは「口(くち)」の作用です。四番目「不妄語(ふもうご)」これは相手が妄想を抱く様なことを言わないこと。嘘はつかないことです。五番目は「不綺語(ふきご)」意味は、中身の無い言葉を話さない不必要なお世辞などの綺麗ごとはいわないこと。六番目「不悪口(ふあっく)」相手を不快にさせる言葉を使えば、嫌な気持ちになってしまいます。悪口は止めましょう。七番目「不両(ふりょう)舌(ぜつ)」二枚舌を使わないということです。相手によって、食い違う事を平気で言えば信用を失うことになるでしょう。
 ここからは「意(い)」心の作用です。八番目「不慳貪(ふけんどん)」これは、物に異常な執着はしない。例えば、お金さえ有れば幸せだというような物質だけで満足するのではなく、心から満足することを大切にしましょう。九番目「不瞋恚(ふしんに)」意味は怒ったり怨んだりしない。一時的でも我を忘れて怒ると、取り返しのつかないことになりかねません。最後の十番目「不邪見(ふじゃけん)」これは、自分の考えだけが偉く正しいと思うことで他人を馬鹿にするなど、独りよがりな見解を持たないということです。
 これで十個の規則は終わりです。一つ一つ考えてみると、普通に生活をしていれば犯さないような事柄もありますが、過去の自分を思い出してみると当てはまる事もあるかもしれませんね。
 最後にお大師様のお言葉ですが、「それ仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し」とあります。仏様の心は遥か遠いところにあるのではなく、皆様の心の中にあるということです。『十善戒』から自身の正しい声を聞き、正しく生きていきましょう。
 お聞きくださり、ありがとうございました。
 どうぞ、善い年をお迎えください。 

平成27年11月1日発行の佐渡支所だより 第11号をアップロードしました。
画像をクリックしてご覧ください

PDFファイルをご覧いただくには「Adobe Reader」が必要です。
こちらからダウンロードして下さい。

和をもって貴とし
真言宗豊山派 佐渡宗務支所 34番
如意山平泉寺 住職 中浜浄純が話をさせていただきます。

最近 特に青少年の痛ましい事件が多く聞かされます。
これは家庭での躾が大きく影響しているのでは無いでしょうか。
数十年前 家庭教育学習で聞かされた事を思いだし述べてみます。
1. 毎朝、起きたら「おはよう」休む時には「おやすみ」と言いましょう。
2. 親や人によばれたら「はい」と返事しましよう。とかく無視されることがよくあります。
3.朝夕の食事の時 手を合わせて「いただきます」「ごちそうさま」と言いましょう。
 これは お米を始め野菜、肉、魚等、多勢の人々の手により育てられた、そして収穫された
 ものであります。それらの生ある物を我々の食事の為に頂いていることを忘れないで感謝の
 心をもって(いただきます)と言いましょう。
4.自分の家や他人の家へ上るとき「履物を揃えて」上る習慣が大切です。履物が揃っていな
 い家庭がよく見られます。
5.人様に親切にされたら「ありがとうございます」とお礼を言う姿は美しいものです。失敗
 した時は「失礼しました」「すみません」と言いましょう。
 このように物の有り余る今日、それらの物に感謝し尊敬し勿体ないという精神の育成、物の
 尊さを心にしましょう。
6.聖徳太子の「和をもって貴としと為す」と言われたように、家族の和、社会の和、国の和、
 世界の和、を説かれています。
 お互いに理解し、譲り合い、助け合い、協力し合う、心のゆとりを持ってこそ和の温かさが
 生まれてきます。

 どうか 「平和」の心を持って、日々、楽しく、明るく、極楽浄土の如く過ごしましょう。

私は、真言宗豊山派佐渡宗務支所の宝蔵寺 副住職 中川泰雄と申します。
 本日は、お釈迦様の「砂の城」というお話をいたします。

 あるとき、お釈迦さまが何人かのお弟子さんとご一緒にインド各地を巡っておられましたが、とある村にさしかかった時子供たちの元気な声が聞こえてきました。一行が足をとめて声のする方を見ますと4・5人の男の子が、砂場で一人一人自分のお城を作って遊んでいました。
 お釈迦様たちがその様子をご覧になっていますと、一番小さな男の子が、隣の大きな男の子が作った砂のお城に足を引っ掛けて少し壊してしまいました。
 大きな男の子は大そう怒って、壊した子を殴ったりけったりしましたが、他の子も一緒になって暴力をふるいだしました。
 それを見たお弟子さんが止めようとしましたが、お釈迦様はもう少し様子を見るよう言われました。すると、遠くから母親らしい声が聞こえます。「みんなお昼ご飯だよ、早く帰ってきて」、すると子供たちは全員声のする方へ向って駆け出しました。あとには、ぐちゃぐちゃに踏み壊された砂の城が残されていました。
 お釈迦様は、「見るがいい、あんなに壊されて怒っていたのに、母親に呼ばれたらみんな壊して行ってしまった。大切なものといっても、もっと大切なものがあったらいらなくなってしまう。本当に大切なものなどこの世に無いということだよ。」と、お弟子さんに話されました。
 お釈迦様は、このお話しを通して怒りの感情をもつことは間違っている、後で必ず怒る必要がなかったということに気づかされる、ということを教えておられると思います。
さらに、お釈迦様のお悟りの一つである諸行無常の教え、この世にある全てのものは変わりゆくということを、大切なものも別の大切なものに変わってしまうというお話で、さとされていると考えられます。
最後までお聞きいただき、ありがとうございました。

手のしわとしわを合せて しあわせー
あるいは、私のようなやせている人は、
ふしとふしが合うからふしあわせだーと言うような
あまのじゃくもいらっしゃるでしょうか?

畑野の長谷にございます泉慶寺の住職 中川博之と申します。

この度は手を合せると言う事につきまして少しばかり
お話しさせていただきます。
仏教では右手を仏性の宿る仏様の手
左手を私達生とし生るもの(衆生)の手と考えられております。
私達真言宗豊山派の宗紋でありますところの輪違も同じ
ような意味合いがございまして、仏様と私達は一緒なんだよと言う「凡聖不二」の教えから来ています。
お仏壇やお墓などで線香を立て、自分の中の
むさぼりやいかり、愚さなどの三毒を焼きつくし、
おちついた気持ちで合掌していただいた時
私達は仏様と一体となれるのです。
一心に手を合せる、その姿ははた目から見ましても本当に
美しいもので、それこそ小さな即身成仏と言ってもよろしいでしょう。
この夏、テレビ等での慰霊祭や檀家さんにお伺いしての御法事で
たくさんの方々や小さなお子さんの手を合せる姿を拝見する
たびに私まで気持が安まるような感じがいたしました。
まことにありがたい事だと思います。
最後に、このお話しにちなんだ古歌を一つ

『右佛、左我とぞ合わす子の中にゆかしき南無の一声』

皆さん方おひとりおひとりの中に仏様はいらっしゃるのです。
お電話ありがとうございました。

今月は沢根 長安寺住職 津山照光師による法話です。

 「桃栗三年、柿八年・・・。」実を結ぶには確かに時を要します。でも時間の経過のみで十分と
いうわけではありません。
 その昔、無著(むじゃく)という方が、鶏足山(けいそくせん)にある洞窟に籠もりました。弥勒
菩薩から直に教えを受けるためです。
 修行を続けて三年。
 弥勒は姿を現わしません。無著が失意に暮れて洞窟を出ると、一人の奇妙な老人に会います。老
人は太い鉄の棒を木綿で擦りながら、針を作ろうとしています。
 老人は言います。
「心をしっかりと保ち、何事でもやり抜く決意であれば出来ない仕事など有り得ない。忍耐を失う
ことなく進めば、掌だけで山をも崩すことが出来る。」
 無著は洞窟に戻り修行に取り組みます。
 それから六年。
 再度洞窟を出た無著が眼にしたのは、大きな岩が水の雫やその上で羽ばたく鳥の羽根によって、
少しずつ浸食され変形している様子でした。
 洞窟に戻り、さらに修行すること十二年。
 結果は得られません・・。悲嘆に暮れた無著は、ついに諦めて洞窟を離れようとします。そこで
彼は一匹の野良犬を見ます。その犬は下半身を蛆虫に喰われて、吠え声をあげています。哀れに思
った無著は犬を助けようとします。近くの村に赴いて金の刃物を手に入れた無著は、自分の肉を削
ぎ落とします。
 自らの肉を与えることによって、犬から蛆虫を取り去ろうとしたのです。
 蛆虫を殺さないように、手ではなく舌を使って自分の肉に移そうとしました。
 と、その時、犬は忽然と姿を消し、そこには弥勒菩薩が神々しい光の中に立っていらっしゃいま
した。
 無著は思わず口走ります。「私は長きに亘り、ありとあらゆる努力をして修行を続けてきました。
しかし、何の兆候も訪れなかった。あまりに慈悲が少ない・・。今までどうして姿を現わしてくれ
なかったのですか?」
 弥勒は次のようにお答えになります。
「天がいかに雨を降らしても、種に問題があれば育ちはしない。仏陀がどれだけ現われていても未
熟であれば受けとめられない。私は最初からここに居る。しかし、汝はそれに気付かなかった。汝
の煩悩がそれを邪魔していたのだ。今、汝の大いなる悲れみの心で障りが清められ、私を見ること
が出来た。嘘だと思うなら私を肩に担ぎ、人々に見せてみなさい。」
 その言葉通り、弥勒の姿を見ることの出来たものは、一人として無かったのです。
 無著は弥勒菩薩の衣につかまって兜率天(とそつてん)に昇り、直に教えを授かります。
 地上に戻った無著は、大乗の教えを伝えました。
 弥勒菩薩が、お釈迦様の次の仏陀としてこの地上にお生まれになるのは、五十六億七千万年後。

 ここまでお聞きくださり、ありがとうございました。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
参考文献
1. 小野田俊蔵 著
「はしごを降りてくる弥勒 -チベットの弥勒信仰-」
月刊『しにか』1995年10月号
大修館書店刊
(http://www.bukkyo-u.ac.jp/mmc01/onoda/works/essay_j3.html)
2. 田中公明 著
『大乗仏教の根本 〈般若学〉入門 
 チベットに伝わる『現観荘厳論』の教え』
大法輪閣刊 2014年 42項・43項
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ネパールはお釈迦さまが誕生された国であり、我が国仏教徒として日々の生活に苦しんでいるネパールの被災者支援に、微力ながら尽力したいと考え救援金募金活動を実施しました。
実施日:平成27年7月26日(日)、8月2日(日)
実施場所:両津港佐渡汽船ターミナル入り口付近
DSCN1715

DSCN1720
多くの方に募金をいただきました。
募金は佐渡市社会福祉課を通じて、日本赤十字社救援金口座へ全額送金させていただきました。
DSCN1728
ご協力ありがとうございました。

佐渡宗務支所主催、4年に一度の総本山長谷寺と高野山等の団体参拝を実施します。
どうぞ皆様お誘いあわせのうえ多数ご参加ください。
※お申込み・お問合せは各菩提寺のご住職までご連絡ください。
旅行日:平成28年6月26日(日)~28日(火)
所要経費:お一人 93,500円
募集人員:90名
募集締切:平成28年1月末日(1次)、3月末日(2次)
申込金:10,000円(参加申込書とご一緒にお納めください。)
詳細は下記リンクからPDFをご覧ください。
honzantorei
PDFはこちらからダウンロードしてください。

 真言宗豊山派佐渡宗務支所下の真楽寺住職、金子大真と申します。
「地蔵信仰」についてお話させていただきます。
真言宗の仏さまは、大日如来を中心にいろいろな仏さまがおられます。
中でも、地蔵菩薩は多くの人に「お地蔵さま」とよばれ、親しまれてい
る仏さまです。
 これほど多くの信仰があるのは、地蔵菩薩の功徳が現世と来世にわた
っていることが理由の一つにあげられています。
 『地蔵菩薩本願経』によれば、「お釈迦さまが入滅後、弥勒菩薩が五
十六億七千万年後までの無仏の間、人々の救済は、地蔵菩薩がひきうけ
る」とあり、現世と来世で苦しむ人に代わって、その苦しみをひきうけ
るという代受苦が示され、地蔵菩薩の本願として、
 ・土地が豊穣で作物に恵まれる。
 ・家内が安全である。
 ・亡くなったら極楽に生まれかわる。
 ・現世ではできるだけ長生きできる。
 ・願い事がよくかなう。
 ・水や火の災難がない。
 ・過ちやさわりを除く
 ・悪い夢をみることがない。
 ・旅に出ても無事である。
 ・仏にめぐり会うことができる。
この十の誓願をたてていると示されています。
 こうした経典の内容から、地蔵菩薩は救済者として基地や災害現場、
水子の供養などで建立され、深く真仰されています。
この地蔵菩薩に、死後の世界の救済をお願いしようと生まれたのが、
六地蔵信仰です。
 死後の苦しみの世界は六つあり、下から順に、
 ・自らの貪り、怒り、愚痴により希望を失って呻吟する出口のない地
  獄の世界。
 ・飽くなき欲望に身を焦がす餓鬼の世界。
 ・本能むき出しの畜生の世界。
 ・他を責め、自分を守ろうとする修羅の世界。
 ・苦楽相半ばの人の世界。
 ・自己満足で舞い上がる元の世界。
この六つの世界を六道といい、この六道をさまよう者を仏の悟りの世界
に導いて下さるのが六地蔵菩薩です。
 お墓参りの際などには、まず、六地蔵尊にお参りし、感謝を捧げるこ
とが良いでしょう。
 地蔵菩薩は、死者の救済と共に、生きている人々を救うことにあるの
ですから、苦しみや悲しみ、悩みや迷い、そして願いを祈れぼ、きっと
お地蔵さまは、それをうけとめ、我々を見守って下さることでしょう。
 ご清聴ありがとうございました。

アーカイブ